佐々木牧場の現在までの歩みを3代に分けてご紹介します。
【初代ヒストリー】
戦前、国営競馬(現在のJRA)の騎手だった初代・省三。
戦後は地元に戻り、昭和24年、国の開拓事業にのり、競走馬の牧場を作るつもりで入植。
山林を開墾し牧場の準備を進めるも、結核にかかり、調教ができるような体ではなくなってしまいました。
しかたなく競走馬の牧場をあきらめ、酪農牧場へと転換。乳牛10~15頭の他、やはり馬への愛着があり、牛乳を運搬する馬車用に道産子を1頭飼育しました。
道産子の馬車で牛乳を運ぶのは妻・芳子の仕事。雪印の倉庫まで近所の人たちの分の牛乳も集荷しながら馬車で向かいました(雪印の倉庫は当時、現在の配志和神社の近くにあったとか。途中からは現在の4号線沿いの消防署あたりに移ったそうです)。
毎朝の馬車での牛乳運搬は、昭和48年にトラックを買うまで続きました。
【2代目ヒストリー】
実家を継ぐため、昭和45年から北海道で酪農の実習を積んでいた2代目・芳久。
昭和47年に帰郷後、酪農家として牧場を継承します。少数精鋭スタイル(1頭あたりの収量が増えるような飼育環境にし、少ない頭数で平均並みの収量を目指す)を目指していましたが、ちょうどその頃、牛乳の生産調整が始まったのです。
少数精鋭を目指していたため、飼養頭数はわずか15頭。ところが、生産調整は地域の平均生産乳料で計算され、平均乳料×頭数分しか買取をしてもらえないため、少数農家は不利。
残った牛乳には食紅をつけられ、販売できないようにされてしまうため、どんなにたくさん絞れる牛を育てても、売ることができなくなってしまったのです。そうした生産調整がどれほど続くものか、先が見えなくなってしまい、酪農をきっぱりと諦めることにしたのです。昭和52年のことでした。
1年後、初代が叶えられなかった競走馬の育成牧場を目指し、牛舎を厩舎へと改修。馬一本で、競走馬の初期調教・育成牧場を営むことに決めました。生まれた時から暮らしの中に馬がおり、騎手だった父から馬のノウハウも教わっていました。独学での調教でしたが、口コミで預けてくれる馬主さんも増え、岩手競馬を主体に、地方競馬の馬たちの初期調教を担ってきました。
平成5年、遅れたバブルの波で岩手県にも競走馬を持つにわか馬主が多く誕生し、競馬場に入りきれないほど馬が流れ込みました。当牧場にも乗り馴らし育成の依頼が多く入り、事業拡大で花泉にも「佐々木牧場トレーニングセンター」を設置。一関厩舎は知人の紹介でオーストラリアの馬の専門家を雇い、2か所での牧場経営となりました。
しかし平成10年頃から競走馬や育成馬の流通が減少。ちょうどオーストラリアの人たちも独立する運びとなり、花泉トレセンのみの経営に縮小しました。
その頃、市内で障がいのある子どもたちのレスパイト活動に取り組もうとしている団体(現在のNPO法人レスパイトハウス・ハンズ)とともに、障がい者乗馬にも取り組み始めました。
※障がい者乗馬についてはコチラ
平成16年、芳久が新馬の調教中に落馬。頸椎損傷の大怪我でした。廃業も考えるも、妻・直子の支えと、馬主さんや関係者のご理解とご協力により、これまでの競走馬の育成から養老馬・休養馬の預託に切り替えることで牧場を維持。2代目自身も、当初は「良くて車椅子」との診断でしたが、懸命のリハビリにより、杖をつきながら自力で歩けるほどに回復したのでした。
【3代目ヒストリー】 現在
青森県黒石市出身で動物には縁のない生活を送ってきた3代目・恭平(旧姓・額賀)。
平成22年、23歳の時、当時の勤務先に「観光馬車を走らせる」という新入社員が入社してきました。2代目の長女・牧恵が大学時代から構想を進めていた観光馬車の復活プロジェクトがついに実現し、平成22年のゴールデンウィークより運行が開始されることになったのです。それに伴い、社員の中からもう1人、馬車部門に配属されることになり、選ばれたのが恭平でした。
馬はもちろん、動物の飼育経験もない恭平でしたが、馬車の修業先(秋田県北秋田市)のお師匠様の男気に感銘を受け、馬のイメージが大きく変わったことで、その世界をのぞいてみたくなったのでした。
「黒石温泉郷観光馬車」としてパートナーの馬車馬「凛」と、手探りでの運行を開始した恭平と牧恵。馬車の知名度もそれなりのものとなり、凛のファンも増えてはいきましたが、3年目を迎えたころから、凛のストレスが目に見えるようになり、その飼育環境に限界を感じるようになっていました。
その頃、佐々木牧場は2代目芳久の怪我後に厩務員として働き始めた佐藤君のネットワークもあり、預託馬の頭数が増加傾向に。今後の展開として、事業を誰がどのように継承していくのか、考え始めなければいけない時期でした。
平成25年3月、馬車をひく凛にこれ以上負担をかけないよう、「休養」という形で「黒石温泉郷観光馬車」は運行をストップ。凛とともに一関に戻ることにした牧恵。さらに、3年の馬車運行の中で絆を深めていた恭平と牧恵はこれを機に結婚し、恭平は佐々木牧場で働き始めました。
一関に戻るにあたり、花泉トレセンではなく、一関厩舎での観光牧場の経営を検討し始めていた3代目夫婦。その矢先に、突如、花泉トレセンの周囲がメガソーラーによって囲まれることになります。周囲の大規模な変化は預託馬たちの精神的ストレスにつながりかねず、できるだけ良い環境のもとで使用してあげたいという想いから、移転を決意。15年程使われていなかった一関厩舎は、恭平の父・修の手も借りながら自分の手で修理。
いずれは一関厩舎へと想っていたことが、わずか3年後の平成28年2月には馬たちの引っ越しを済ませることになってしまいました。
そして移転したその年の4月より、正式に佐々木牧場の事業が3代目・恭平に継承され、現在に至ります。